歴史ネタ 第1号 歴史はその時点での地形とエネルギー確保で動くという新説について
歴史の流れを、地形とエネルギー確保の観点からみる、という新説がある。通常、歴史を紐解くときには、文献や昔話や、人と人との関わりあいから、論じることが多いが、地形とエネルギーという切り口でみると、歴史において、人が何故その時期に、そういう動きをしたか、合理的に説明ができるというのだ。
御教えに、今から約2700年位前のこと、伊都能売神皇様が統治されていた時に、素戔嗚尊様と瓊瓊杵尊様が山口県の萩より上陸し、瓊瓊杵尊様は宮崎県の高千穂に潜み、素戔嗚尊様は東征して、伊都能売神皇様に皇位を譲るように、日本国民を人質に、武力を持って迫った。伊都能売神皇様は皇位を、天照天皇様にお譲りになり、インドへ御下りになった。その後、天照天皇様も岩戸隠れされ、その後、素戔嗚尊様が皇位を継がれたようだ。
素戔嗚尊様の統治は、代々、数百年続いたが、その間に、放漫統治で、規律が乱れていき、人心は荒廃していった。その様子を窺っていた、瓊瓊杵尊様の子孫が、稲作を教えながら、東征していくことになる。当時の大坂で戦をする際、大和の国、今の奈良県に入り、東から攻勢をかけて、天下を取った。いわゆる神武天皇のご即位、大和の国の誕生だ。
ここで、何故、神武天皇は奈良県を選らばれたのだろうか?奈良県はご存知の通り、盆地で、四方八方を山で囲まれている。この地形、森林山地こそ、当時のエネルギーの源泉だったのだ。豊富な油田があったというのと、同じだったのだ。山の樹木で火を焚き、住居を造り、10万人から20万人の都市を作った。
当時の一人当たりの、高さ10mクラスの樹木の必要本数は、年間10本だったそうだ。すると、年間で最低、100万本~200万本必要だったことになる。物凄い量である。そのエネルギーを確保する為に、奈良盆地を選ばれたと、合理的な説明がつくというのである。
その後、当然ながら奈良の山はハゲ山となり、木を切ることができなくなったので、記録では西は四国まで、南は紀伊半島まで、東は滋賀県の彦根あたりまで、材木を求めていたとのこと。当然エネルギー確保が、ニッチもサッチもいかなくなり、奈良盆地は水捌けも悪いので、疫病が流行ることになり、遷都ということになったというのだ。
また、もっと時代を進めて、戦国時代から、江戸時代の徳川家康の時代。史実によると、秀吉によって、家康は江戸という、当時全くの未開の地に左遷されることになる。関ケ原の戦いで勝利を治めた後、京の都から見ると、超田舎であった江戸に家康は一目散に帰っている。天下を取ったのだから、都に居てもいいだろうに。
ここに家康が見た、エネルギー政策があるというのだ。当時の江戸は豊富な森林が利根川水系、即ち、関東平野を覆いつくしており、今でいう豊富な油田を家康は見たのではないかというのである。その為に、江戸を大切にしたのだろう。
確かに、江戸時代に描かれた風景画の山はハゲ山が多い。現代を生きる我々からすると、山には木々が茂っているものだと思っているが、近代以前、江戸時代以前の人々にとっては、山に木がないというのは見慣れた風景だったのだろう。
時代は変わり、明治維新。メシヤ様が御降臨になられたころは、文明開化、産業革命で、木を燃やすというのから、石炭、水蒸気機関の時代となった。木炭から石炭へと、エネルギーは変わっていった。しかも運のよいことに、石炭は全国各地で、当時の需要を満たすだけの量が確保できた。
太古の昔から、自分の住む場所の周りの山が、ハゲ山になってしまったら、そこに住み続けることが困難になった。だから、遷都など、エネルギー豊かな地形を求めて、移住していったとする。時代と共に、エネルギー確保のために、山の木を伐採することは、段々と減っていった。時代と共に流通も近代化してきて、今に至っている。
地形とエネルギー確保の観点から、歴史をみる、という切り口はあまりないが、面白い発見もあるので、ここで紹介させて頂いた。ご自分で歴史を見る時に、一度この地形とエネルギー確保という観点で、調べるのも面白いので、お勧めしたい。